■1 すべては社員のために


◆専門性の高さゆえに雇用を重視する


 企業は収益を上げていかなければならない。とはいえ、収益のためだけに事業を行う会社は少ないし、あらゆるステークホルダーのために存在していることを大切にしているものである。
 日本で初めてレーザーの専門商社として設立された日本レーザーは、なによりも雇用をつまり社員を大切にしている会社である。その雇用を大切にする姿勢が、結果的に社員のモチベーションを上げ、パフォーマンスを向上させている。
 日本レーザー代表近藤宣之の雇用を重視する理念とはどのようなものか、なぜ雇用を重視するようになったのか、なぜ雇用を重視することが業績につながっていくのかについて見ていくこととする。

 日本レーザーが取り扱う商品は、レーザー機器、アクセサリ、計測応用装置、加工応用装置、バイオ関連機器、自社開発製品、OEM商品などである。
 レーザー機器は、医療現場ではレーザーメスがあり、産業分野では材料の加工に使われる。アクセサリには、レーザーパワーメ―タ―や地形の測量計などがある。現在ではレーザー測量計の普及にともない、詳細な地形図を描くことができるようになった。計測応用装置では、光を利用した各種工業計測機器や解析装置がある。
 レーザー関連の製品は、様々なタイプのものが数多くリリースされており、使い方も多彩である。しかも、新製品が次々と生み出されているので、レーザー専門商社としては製品知識が必要となる。
 どんな製品をどこの国のどんな会社が出しているのか、また新製品はどんなもので、使用者はどんなことを望んでいるのか、それに適した製品は何か、新製品を欲しがる顧客はどこにいるのか、といった専門知識と顧客ニーズを把握できないといけない。
 以上のレーザー関連機器の多彩さから、日本レーザーは数多くのメーカーと数多くの顧客とのネットワークをもっているところに強みがある。
 日本レーザーは営業部員の7割が技術系の人材によって成り立っている。2割が一流大学の院卒者であり、その専門知識を生かした顧客対応に定評がある。納品にあたってデモンストレーションや保守サービスも行っている。輸入した装置をもとに、顧客の要望にあわせた開発も提案している。
 また、「低予算、短納期、少量注文」にも応じ、スーパーニッチ市場で自社開発のカスタム品を提供している。それらは客が大手メーカーにもち込んだが成立しなかった案件で、これをもとに改良、製造したもので、提供するサービスのきめ細やかさを物語っている。

 このきめ細やかな対応は、どのようにして成り立つのか。
 日本レーザーは海外に100の取引先をもち、国内には2000の顧客がいる。取り扱う商品は、先端的であり専門的である。先端技術によってつくられる製品は、その技術の変化によって変わり、先端技術自体の情報をサーチする能力が求められる。
 次に、技術のみならず製造可能かどうかも重要となるために、その情報をいかにつかむかが課題となる。
 これらの情報は専門分野であるために、単にインターネットや単発のインタビューなどで調査できるものではない。そこで、世界の最先端情報を入手するためには英語力が必要になる。
 したがって同社には英語力が高い社員が多く、TOEICでいえば、900点以上が2割、800点以上は4割に達している。
 商品を購入する顧客に対しても、単に話を聞いていればいいというものではない。研究者のニーズは漠然としていて、それに合う商品やその組み合わせを提案することは難しい。
 そこで、ニーズがどのようなもので、どのような対応ができるのかといった点を説明できないといけない。世界中にどのような装置が存在し、どのような組み合わせで、どのようなサービスが提供できるかについても、情報をもっていないといけない。
 これらのために、日本レーザーは幅広いメーカーとのつながり、多くの顧客とのつながり、すなわちネットワークをもつ。このネットワークの広がりが、供給サイド、需要サイド双方のニーズを満たすものとして機能する。専門的で先端的な商品を取り扱う企業としての強みは、このネットワークによるものだ。
 ネットワークといえば単純明快なのだが、これに必要なのは人的資源である。日本レーザーの社員が、顧客や取引先に対してしっかりと対応し、良好な関係を維持するためにネットワークが構築され、会社の強みになっている。
 現場の社員が顧客や取引先との良好な関係を築かなければ、現在の装置関連の情報は入ってこないし、顧客からも見放されてしまう。このことからみれば、日本レーザーの強みはネットワークであり、その本質は人である。
 すなわち社員の成長が会社の成長であるから、日本レーザーは社員を大切にすることで成長してきた会社ということができる。


◆雇用を守り社員を大事にする経営


 雇用を守り社員を大事にする経営の真髄は、経営理念やクレドに明記されている。
○経営理念
 私たちは、世界の光技術を通じて、お客様やパートナーと共存共栄を実現し、科学技術と産業の発展に貢献します。
 Integrated Light Solutions
  We facilitate the development of a great diversity of sciences and industries,creatively   applying optical technologies through cultivation of mutually beneficial relationships with   customers and partners.
 このように経営理念の表記には日本語と英語とがあり、同社がグローバルに活躍する企業であることをうかがわせる。
 ここまでは他社にも見られる内容であるが、クレドにこそ、この会社の独自性を垣間見ることができる。クレドには次のような説明がある。
○社長からのメッセージ
 私たちは、世界の光技術を通じて、お客様やパートナーと共存共栄を実現し、科学技術と産業の発展に貢献します。
私たちの基本的な3つのコーポレートミッション
 ・私たちはお客様に〝総合的な光によるソリューション〟を提供します。
 ・私たちは、年齢、性別、学歴や国籍等に係わらず、日本レーザーに働くすべての人た  ちに、自己実現と自己成長の機会と環境を提供します。
 ・私たちは、海外サプライヤーとの交流を通じて、世界の人びとと草の根の交流を推進 し、相互理解と世界平和に寄与します。
○私たちの未来ビジョン(¥100/$換算で)
 ・JLCは日本の市場だけでなく、東アジアの市場にも注力していきます。
 ・JLCは数年以内に40億円の売上を達成し、近い将来50億円を目指します。
 ・JLC グループは、長期的にはJLCHDの傘下に何社かの企業を加えることで   100億円の年間売上を目指します。

○私たちの経営指針
 ・JLCは、事業を成功させるために、独自の企業としての使命、経営哲学、経営方針  や企業文化を十分活用していきます。
 ・私はJLCで働くすべての人に、会社の経営哲学や価値観を理解してもらうために努  力します。社長としての私の役割は、個々の社員の成長のために支援をすることです  が、特別なやり方を無理矢理押し付けるものではありません。

「私たちの基本的な3つのコーポレートミッション」の2番目に、社員の自己実現と自己成長がうたわれている点はかなりユニークである。この点は次の文句に顕著にみられる。
1.人生の幸福にとって大切なこと
 ・他の誰かに必要とされることです。
 ・他の誰かを助けることです。
 ・他の誰かに感謝されることです。
 ・他の誰かから愛されることです。
2.企業の存在意義
 ・雇用することです。(働くことで得られる喜びの場を提供すること)
 ・成長と自己実現の機会を与えることです。(チャンス&チャレンジ)
 ・お客様とパートナーとの「お蔭さまで」という信頼関係を築くことで世界平和に貢献  することです。
3.経営の原則(CSより先にES)
 ・社員の成長が会社の成長です。
 ・お客様満足より社員満足が第一です。
 ・社員が、会社や同僚、また自分たちの供給する製品やサービスに満足しなければ、決  してお客様を満足させることはできません。
 ・社員が待遇や与えられた機会に感謝しなければ、お客様と楽しさを分かつこともでき  ません。

 とくに「お客様満足より社員満足が第一」とまで示しているのは興味深い。人を大切にすることや企業の存在意義が示されているなかに、社員の満足が示されており、この会社が本当に社員を大切にしていることがよくわかる。
 同社のカタログには、事業の展開を「信頼、魅力そして共感」(Confidence,Appeal andRespect)の頭文字CARが示されている。これは、「あらゆる人間関係、ビジネス関係において、お互いに信頼し、魅力ある存在になるよう努め、目標に向かって努力するなかから、ともに喜びと共感を高めていく」というものであり、事業の根幹にあるステークホルダーとの関係構築のなかで重要とされることが示されている。


◆親会社から子会社へ、そして独立


 日本レーザーは、もともとレーザーの輸入販売商社として設立された。1968年設立時の状況は、個人株主が10名、資本金500万円だった。そして、71年に日本電子の完全子会社になってから規模を拡大させていった。
 74年に資本金を1000万円に、76年に2000万円、83年にはコムテックトレーディングと合併し3000万円になる。これにより株主構成は3分の2が日本電子、3分の1がその他となった。
 資本金だけでなく営業拠点も急激に増えていく。77年に大阪営業所、89年には名古屋営業所を設置。現在の大阪支店、名古屋支店である。92年にはサンフランシスコ事務所を開設し、93年に筑波営業所を開設している。
 この拡大発展の過程で、日本レーザーには経営危機が起きている。バブル崩壊後、事務所開設などのコストがかさんで赤字となり、親会社の日本電子は銀行から日本レーザーの経営陣交代を求められるほどだった。
 そんな折、日本電子の米国での経営を再建させた近藤宣之が、日本レーザーの代表取締役として派遣される。日本レーザーが社員の雇用を第一にして事業再建をはたし、さらに業績を伸ばし、社会的にすぐれた会社であると認知されるようになったのは、近藤の活躍によるところが大きい。そこで近藤氏の人物像に迫りながら、発展の歴史を見ていくことにする。


■2 トップは経験を経営にどう生かすか

◆学生時代にヨーロッパでつながった日本電子


 近藤宣之は44年の東京生まれ東京育ち。10代のときに競技スキーをはじめ、都大会で何度も入賞し、オーストリアのインスブルックのローカル大会で入賞するなど数多くの実績を残している。
 この実績は大学時代に、ある先生と出会ったためであるが、その先生とは冬季国体の大回転競技、全日本スキー選手権大会での滑降競技の優勝者でもある小樽の金丸美恵子氏である。
 その師弟関係は強く、これが近藤にとって信頼の大切さを教わる経験になる。金丸氏のおかげで、冬季五輪アルペン日本唯一の銀メダリスト猪谷千春氏、80歳でエベレスト登頂した冒険スキーヤー三浦雄一郎氏とも知り合う。
 近藤氏は大学生活のなかで、日本国際学生技術研修協会という理科系学生のための海外インターンシップ仲介機関の留学生募集に応募した。夏はスキーのオフシーズンなので、何か面白いことはないかという気持ちだった。合宿の最中に日本電子の採用面接の連絡があったが、応募したことを忘れており、断念してもいいくらいに考えていたほどだった。
 さすがに近藤の父は激怒し、合宿から呼び戻してドイツ語での面接を受けさせた。結果は合格だったのだが、近藤は父の勧めでヨーロッパを見てこいとアドバイスされ、1年間休学した。結果的に、この経験が近藤の人生に大きな影響を与えることになる。
 しかし、1年間思う存分スキーができるという期待をよそに、協会から費用が出るのは留学中の3カ月間だけ。父は、1年間ヨーロッパを見てこいといったにもかかわらず、生活は自分でなんとかしろと突き放すだけ。
 そこで、スイス、オーストリア、イタリア、ドイツのスキー場にあるホテルやレストラン100カ所にアルバイトしたい旨の手紙を送り、インスブルック近くのスキー場から住み込みで働くことを許可する返事が来た。
 自分から働きかけてアピールすることの大切さを、ここで体験する。
 協会からの補助が出る最初の3カ月間、近藤はドイツの寮に滞在することとなった。寮の同室者はアフリカからの留学生で、生活習慣の違いに戸惑うこともあった。ただ近藤は、向こうから見たらこちらがユニークかもしれないと考えたりもした。
 この異文化と接する経験が、外国人に身構えないことにつながっていった。
 この時期に、近藤は中国電力会長を務めた福田督氏とミュンヘンで出会っている。その様子を福田氏は、日本経済新聞の「交友抄」に書いている。そこでの説明から、アムステルダム運河殺人事件が騒がれた時代であったため、ドイツへの留学生として渡ったばかりのころであろう。
 当時、同室の彼と訪れた、分断されていた東西ベルリンの戦後復興の格差は衝撃的だった。近藤が帰国後、会社の民主的な労働組合に属して企業再建を行ったのは、東ベルリンの空気と惨状が階級闘争主義への疑問となったからだ。
 もう一つ、日本電子に入社しようという気持ちにさせたことがある。母の友人の甥が仕事の都合でパリに来ているというので、近藤もパリに赴き、1カ月滞在した。その彼が日本電子の社員であり、電子顕微鏡の輸出のために原子力研究所に来ていたのだ。
 機器を納入しても、研究所には電子顕微鏡を使える人がいなかったために、彼はオペレータ兼サービスエンジニアとしてパリに赴任していた。世界を相手に英語やフランス語を巧みに操ってグローバルに活躍しているその社員は、近藤には憧れとなり、自分もそのような仕事がしたいと考えるようになった。
 近藤は帰国して、日本電子の門をたたいた。


◆入社後すぐに信頼の重さを知る


 68年に日本電子に入社した近藤は、応用研究室に配属される。そこは研究を行う部署というよりは、販売促進用資料の作成などセールスに関する仕事をする部署だった。近藤にとっては将来の海外での活躍に結び付きそうな仕事のはずなのだが、与えられた仕事は電子顕微鏡で撮影した写真を現像してプリントするというもの。この写真は営業資料になるので大切な仕事なのだが、毎日暗室に閉じこもるため満足できなかった。
 退屈な単純作業のなか、先輩からコントラストのつけ方を注意されたことがあった。この経験から、自分の仕事が単純作業ではなく、奥の深いものであることに気づかされる。仕事はやりようによって面白くなるということが実感された。
 電子顕微鏡部門の技術部長、紀本は厳しい人物だった。入社まもない近藤を毎日厳しく叱責したが、近藤は紀本部長の言葉の背後にある「成長させたい」という想いを読み取っていた。それは紀本との信頼関係がなせるものだった。信頼関係があれば苦手意識を越えて人の心を開かせるのである。
「簡単にはもてないし、簡単には保てない。だからこそ、尊いのです。そうやって築いた信頼関係は人生の宝です」(近藤)
 信頼の重要さに関するエピソードは、スキー時代にも日本電子入社後にも存在する。この信頼に関する意識は、後々重要なファクターとなる。


◆労働組合委員長として雇用の重さを知る


 日本電子には労働組合が複数あり、圧倒的な力をもっていたのは左翼系労働組合だった。近藤はドイツ滞在時に東西ベルリンの復興の格差を目の当たりにしており、それ以降は共産主義に懐疑的な立場をとっていた。そのため、左翼系労働組合には加入せず、民主的な労働組合に加入することにした。
 しかし、その組合は弱腰で理論武装もできていなかった。そこで、近藤が民主的な労使関係の必要性を訴えるようになると、それならばやってみろとばかりに委員長に担ぎ上げられた。
 28歳という極めて若い人間が委員長についたことになる。その組合は労使の協議・交渉のみならず、左翼系労働組合にも対抗する必要があった。
 志を同じくする組合員と民主的な労働交渉のために活動し、その努力が実を結んでこの組合が主流派となっていく。
 近藤は11年も組合委員長を務めた。彼のこだわりは、経営悪化に対する自主再建である。これが多くの支持を得ることになり、会社が逆境にあっても社内から社長を輩出し、賃金水準も世間並に戻すことに成功した。長期にわたる組合活動により組合員2000人の顔も名前も近藤は記憶した。
 時間を組合委員長就任時に戻そう。組合間の戦いが終わったと思った矢先、日本電子はオイルショックと放漫経営で74年に経営が傾き、正社員の3分の1にあたる1000人の人員整理を行わなければならなくなる。
 希望退職制度や再雇用制度などを用いて民主的な人員整理を行っていったのだが、希望退職という形をとっても、思いが残るものである。しかも、組合であるために個人別闘争積立金の退職社員への返還手続をする必要がある。
 そのため、近藤は希望退職者のほぼ全員と面談することになった。大半は納得して退職していくにしても、一部の組合員には長く組合費を払ってきたのになぜ犠牲にならなければならないのかと問われた。
 近藤はこの経験から、雇用を守れなかった労働組合の責任とともに、どれだけ民主的な労使関係ができていても、会社本体の経営が傾いては意味をなさないと痛感した。近藤が日本電子在職時に得たこの経験が、日本レーザーの雇用重視の基礎となっていく。
 創業経営陣の退陣が人員整理の条件だったが、この調整とその後の自主再建を目指す取り組みで求心力をもった近藤は、経営陣にとっては一種の脅威であった。現経営陣よりも社員の状況を知り、結びつきが強かったからである。
 そのためか、84年にアメリカのニュージャージー支社への赴任を命ぜられる。


◆海外でのリストラにも重要な英語力


 近藤は組合の委員長として長い間活躍し、一部の役員から危険視されていたため、ニュージャージー支社への辞令は「体のいい島流し」と評された。当時、委員長は後輩に代わっていたのだが、経営陣にとって近藤はやはり脅威として映っていたようだ。
 しかし近藤は、「島流し」を英語力を鍛え直すチャンスととらえた。もともとグローバルに活躍したいという思いで日本電子に飛び込んだこともあり、近藤はアメリカに赴く。
 ニュージャージーでの仕事は、なんと支社の閉鎖。会社経営の悪化から、現地の人は全員解雇し、本社から送られてきた人は削減する方針をつらぬいた。これはアメリカでの整理方式だが、近藤にとっては厳しい手段をとったと感じざるを得ない。この支社は土地・建物まで売却するほどのものだった。
 経営の合理化に失敗すれば責任を問われるリスクもあり、だれもやりたがらない仕事だったが、成功すれば実績として評価される。近藤にとっては、起死回生のチャンスである。
 しかし、英語のブランクが大きく着任後は苦労した。ヒアリングについては出発2カ月前から勉強に打ち込んでいたため、ある程度回復した。しかし話すほうはまったく上達せず、相手の主張に反論したくても表現できずにやり込められてしまうこともあった。
 そもそも近藤に与えられていた任務は、ニュージャージー支社の資産売却と解雇であり、きわめて厳しいものであった。思うように表現できない近藤は、生まれてはじめて胃潰瘍になる。それでもくじけずに食らいつき、1、2年ほどでタフな交渉ができるレベルにまで上達することができた。
 近藤はニュージャージー支社の次に、ボストンの米国法人本社に移された。ここでアメリカ式の仕事の進め方を教えてくれたアメリカ法人の初代社長トム・ヒューバーと2代目社長のギャリー・コグスウェルと出会う。
 近藤は、アメリカ人の彼らと同じフロアで仕事をして、情報をシェアするスタイルをとった。これはメンバーとの信頼関係を築くことが大事だという近藤の考えに基づく。海外赴任の日本人が自室に閉じこもり本社と連絡を取っていることが多いなか、このスタイルは珍しいものであった。
 ボストン滞在時に、米ソの冷戦が終結した。ということは、アメリカが軍事産業に力を入れなくなるということであり、電子顕微鏡や電子ビーム装置といった日本電子の製品が軍関係に売れなくなることを意味していた。
 大幅な赤字に転落することが予想されたが、現地で進めていたサービス事業が好調となり、赤字をカバーすることができた。
 しかし、リストラせざるを得ない状況であったために、まず日本から派遣された社員を半分に減らし、現地人をレイオフさせることを考えた。ボストン本社はニュージャージーと異なりレイオフをしたことがなく、いわば終身雇用に代表される日本的な支社だったのだ。そこでのリストラ断行は厳しかったが、当時の経営状況では避けられなかった。


◆努力する過程にこそ意味がある


 84年から92年までのボストン滞在時に、アメリカで成功する条件をどう思うかとアメリカ人の仲間から聞かれたとき、「健康、能力、ハードワークだろう」と答えたところ、それだけならいくらでもいて、成功する条件とはならないといわれる。
 その仲間は、「よい縁と幸運に恵まれることが大切で、そのために生かされること、仕事をいただけることを神に感謝することが大切だ」という。だからアメリカでは神への感謝の具体的な証としてボランティアが盛んなのだ。
 別の機会にアメリカ人牧師から聞いた言葉として “There is no way to happiness.  Happiness is the way”というのがある。「幸せになるための道はない、こうすれば幸せになれるというものはない」ということを意味している。
 幸福になりたい、成功したいと努力していく過程に意味があるということが示されているのが、第2文の「幸せとは道である」ということになる。だから、「生きていくなかで感謝しながら自分を磨くことで、自分の役割を果たすことができる」ということが重要なのだ。
 この言葉は、近藤の祖母とつながるところがあった。祖父の死、関東大震災での全焼、第2次大戦での全焼など、何があってもいきいきとしていた祖母の生き方は、近藤の理想とする生き方である。
 すなわち、何かを成し遂げるより、成し遂げようとすることに価値があるという生き方である。この祖母の生き方とつながることから、近藤にとってこの言葉はもっとも好きな言葉となった。


◆ピンチをチャンスに変えた


 日本で長く労組委員長をしていて、一部の役員に恐れられていた近藤であったが、アメリカ滞在はプラスに働いた。もしそのまま日本に残っていれば、手強い組合OBとして昇進の道が閉ざされることになったと考えられるからだ。
 厄介払いのようではあったが、ニュージャージーでの整理とボストンのレイオフという仕事を任されたため、近藤は大きな仕事を成し遂げた人物として評価されるようになった。なお、このアメリカ滞在時に、アメリカ法人を赤字に落としたことは一度もなかった。
 業績が認められた近藤は、89年に日本本社取締役米国支配人となり、93年には取締役国内営業担当として戻ることになる。45歳での本社の役員は、日本電子の歴史上最年少だった。
「体のいい島流し」といわれたアメリカへの辞令は、ピンチではあったが、結果からみればそのピンチに果敢に取り組んだために、成功への糸口となっていた。まさにピンチがチャンスに変わったのだ。
 近藤は自著で、次のように説明している。
「一般的には絶体絶命のピンチととらえられがちなことにも、必ず突破口はあるのです。不本意な環境変化に、もうだめかと思う瞬間は誰しもあるでしょう。そのとき、もうだめだ、で思考停止してしまったら、本当に終わってしまいます」(近藤宣之『ビジネスマンの君に伝えたい40のこと』あさ出版)


◆日本レーザー再建の責任者として


 近藤が帰国したころ、日本電子子会社の日本レーザーはバブル時の過大投資によって経営が大幅に傾いていた。近藤が日本電子取締役国内営業担当になって1年もたたない秋、日本レーザーは上期(九月期)決算で債務超過になり、主力銀行から経営破綻処理の圧力がかかったほどである。
 これに対して、日本とアメリカでリストラを成功させ経営を再建させたことから、近藤がこの問題を解決するように白羽の矢が立つ。94年、近藤は日本電子役員をしながら日本レーザーの代表取締役に就任。再建の経験を買われた代表就任だったが、最高責任者として取り組むことは別格であった。利害関係の対立があるなか、ビジョンを示して進んでいかなければならないからである。
 日本レーザーの再建のために、全社員を集めて会社の方向性について説明したが、社員は聞く耳をもたなかった。そこでやりかたを変えて、社員教育をフェイス・トゥ・フェイス形式に変えた。
 まず役員向けに毎朝一番でミーティングを行い、毎週月曜日には、社員が出社する1時間前に課長以上を集めて幹部会を開いた。そして月1回、30人規模の全社会議で経営報告を行った。
 しかし、フェイス・トゥ・フェイスだけでは専門的なトレーニングができないので、毎月の社内報で経営データを公開し、それぞれの立場で考える訓練をしてもらうようにした。
 こうして日本レーザーの経営は回復していった。


◆日本電子を辞めて示した不退転の気概


 経営が回復していくなかいあっても、日本レーザー内に近藤に対する不信感は根強かった。親会社の役員のまま子会社の代表になるということは、日本レーザーの社員を軽視して、親会社に都合のよい成果を上げるだけ上げて、いつか親会社に戻るのではないかという疑いを社内にいきわたらせてしまった。
 もともと近藤は最年少で日本電子の役員になったわけで、日本レーザーである程度の活躍、すなわち厳しい施策によって一時的でも業績を復活させれば、日本電子に戻って安泰な人生を送ることも可能なわけである。
 実際に近藤がアメリカでやってきたことは、困難といわれたリストラなのであって、それを成功させての日本レーザー出向となれば、社員にしてみればリストラをしかけてくる存在になるのではないかということである。しかも、親会社が大変な時期に子会社の社員の都合を一番に考えることはありえないと考えるのは自然なことである。
 しかも、これまでの社長は親会社からの天下りのお飾りであり、経営実態を正しく把握できない状況だった。近藤もこの再建当初に、重要な取引先との輸入販売権(商権)をもちだされる事件にさいなまれたことがある。
 近藤がもっとも信頼していた常務が張本人で、商権と優秀な部下を引き連れて独立したのだ。この事件は、これまでの日本電子と日本レーザーとの関係が引き起こした悲劇であった。
 そこで95年、近藤は親会社の取締役を退任し、日本レーザーに専念することにした。日本レーザーの再建に失敗したら、自分も立場を危うくする不退転の気概を示したのである。
 社長就任後、すぐに取引先の確保に動く。その際、海外の全パートナー企業との関係強化が自分の仕事であると考えた近藤は、失った商権に関するサプライヤーを開拓していく。このときは生え抜きの役員や社員の協力を得て、商権回復に成功した。
 レーザー機器販売市場はニッチなため、大企業が手がけるには採算にあわず、また専門家がベンチャーを立ち上げて参入してくる土壌もない。海外メーカーにとって、日本での販売能力を満たす専門知識の難易度が高いことによって、日本レーザーは過剰な競争を避けてこられたのだ。
 しかも、国内の日本レーザー代理店は一匹狼である傾向があり、組織化され情報の集まる日本レーザーが間に入ることで、高い価値を提供することができるようになった。
 このようにして、欧米50のレーザー装置メーカーからの信頼も確立させたため、研究者の側に立った購買代理機能をも、日本レーザーはもつことになった。
 この結果、社員の団結力は高まり、95年度には大幅な利益を出し、累損赤字を一掃した。96~97年度には不良債権や不良在庫を整理し、バランスシートを改善させて再建は完了。その後、日本レーザーの売上高は破綻当時の10億円から、98年に20億円に、そして10年には40億円になる急成長を見せた。


◆親会社からの独立へ全社員が団結


 日本レーザーは急成長を遂げ、04年に1億3700万円の経常利益を出し、親会社への配当として50%を出すという親孝行な会社となる。
 そこで、親会社の担当役員の許可をもらって沖縄2泊3日の社員旅行をしたところ、社長が激怒し、近藤が始末書を書かされる事態となった。ほかにも多くの点で親会社とくらべて不公平な点があった。
 最大の問題は、生え抜きの優秀な社員が実績を上げても絶対に社長にはなれず、役員も難しいという状況である。そうした不満分子が次々にスピンアウトして、多くの競合会社をつくることにつながっていたのだ。さらに、為替予約や重要な意思決定は親会社の常務会決定待ちというような制約があり、経営から機動力を奪っていた。
 一方、日本電子も日本レーザーと本業との相乗効果が期待できないと考え、「後任社長はもう派遣できない」と打診してきたのである。
 日本レーザーが生き残るためには、自主的経営しかないと判断した近藤は、日本レーザーの親会社からの独立を考えるようになった。
 では、独立するにはどうすればよいか。近藤はいくつかの方法を検討した。まずは株式を市場に公開するIPOだが、上場すると株式市場の動向を見なければならなくなるので、これは行わないことにした。
 次に、自社株をどこかの会社に買い取ってもらって日本電子から独立するM&Aだが、これも親会社が替わるだけなので、結果的に同じことになるのでやめることにした。
 そこで考えたのが、株式の買い取りである。経営者が自社株を買い取り経営権を確保するMBOだ。しかし、これだと経営陣だけ独立にたずさわることになり、本来の目標である全社一丸となった独立とは異なるため、これもやめた。
 また、MBOによって株式を取得する方式では、短期的収益を要求するファンドが参画してくる可能性があった。ファンドが介入してくると、イグジットのために株価を上げようと社員に無理をさせることが想定された。そうなるとモチベーションが下がっていったこれまでの状態を改善させるどころか、むしろ悪化させることにつながることを恐れた。
 そこで、ファンドを介入させないMEBO(Management and Employee Buyout)による株式の買い取りを行うことにした。
 自己資本と借入金をMEBOの資金とするこのスキームの最大の問題は、誰が銀行借入を保証するのかということだ。買収のために設立したJLCホールディングスの銀行借入金1億5000万円は、買収される事業会社である日本レーザーがコーポレート保証する。では日本レーザーの運転資金6億6000万円は、これまでの日本電子に代わって誰が保証するのかという問題に直面したのだ。銀行の要求は、代表取締役である近藤個人保証であった。
 持株会社への出資は、役員全員で50%以上、社員を巻き込む以上、社員からの出資枠は3分の1とした。資本金3000万円では、出資希望枠の4倍もの申し込みがあり、急遽資本金5000万円で再登記したが、それでも枠の2・4倍もの出資希望があった。それだけMEBO以前でも社員のモチベーションが高かったのである。
 そして07年、持株会社JLCホールディングスを設立。日本レーザーの株式を個人株主からは額面の3倍、親会社からは額面の6倍の値段で買い取った。もちろん日本電子と完全に関係を解消するわけではなく、日本電子がJLCホールディングスの株式の14・9%を取得することによって関係を維持した。
 これらにより、日本レーザーはJLCホールディングスの100%子会社となった。


◆社員第一の考えが大きな実を結ぶ


 MEBOによる独立で、親会社には頼れないという独立意識と責任感、自分たちで収益を上げることができるという希望が生まれた。会社として絶対に赤字にはならないようにしなくてはならず、そのためには社員ががんばるしかない。
 その意気込みから、経営陣と全社員は一丸となってサブプライムローン問題、リーマンショック、欧州通貨危機、東日本大震災といった経済的に最大の混乱が生じたこの期間にも、連続黒字を達成させている。
 東日本大震災では多くの死傷者を出して、物損のみならずサプライチェーンの破壊など日本中の経営者が想定外のことに取り組まなければならない事態となった。
 日本レーザーも例外ではなく、売上を大きく減らす事態となった。11年3~5月期の売上高は前年同期比で半分。そこで近藤は、取り扱っていた案件を前倒しで進めていくことに方針を変更した。
 多くの顧客から協力を得ることに成功し、6月に例年並みの売上高に回復し、10年度には引き続き過去最高益を更新した。
 このあたりから、日本レーザーは社会性の高さが評価されるようになる。11年5月には第1回「日本でいちばん大切にしたい会社」大賞の中小企業庁長官賞、翌12年1月には平成23年度新宿区「優良企業表彰」で大賞(新宿区長賞)、同年10月に第10回東京商工会議所による「勇気ある経営」大賞で大賞を受賞する。
 この勇気ある経営には、同社の雇用に対する姿勢が評価された。
 受賞理由の第一は「レーザー専門商社として、世界最先端のレーザーや計測器などを輸入して研究開発企業に提供するだけでなく、独自に技術部門を擁し応用分野における技術提案やサービスを実施することで、国内産業の振興にも大きく寄与していること」である。
 第二の理由としては、「債務超過だった赤字会社を再建し、かつ親会社から独立させ、すべての社員を株主にする(MEBO)など、思い切った経営改革を断行し、活力ある会社に成長させたこと」があげられている。
 さらに13年2月に、関東経済産業局「女性活用ベストプラクティス」に選定され、3月には経済産業省「ダイバーシティ経営企業100選」全国43社に入選し受賞、4月には経済産業省「おもてなし経営企業選」全国50に入選し受賞する。11月には東京都「平成25年度東京ワークライフバランス認定企業──多様な勤務形態導入部門」に選定され、12月に経済産業省「がんばる中小企業・小規模事業者300社」に選定される。
 15年、日本レーザーは大型レーザーや新商品の販売も手がけるようになり、さらなる成長が見込まれている。この一連の過程で、日本レーザーは再建に成功し、独立を確保し成長し続けているのだが、それは「社員のモチベーションが高かったから」と近藤は語る。


■3 社員は会社の基本である


◆社員満足が好業績を生む


 雇用を大切にする理念を体現した日本レーザーは、どのように社員に接しているのだろうか。注目する理由は、ここ数年の円安のなかでも日本レーザーは業績を上げてきたからである。
 日本レーザーは、世界中から最新機器を買い付けて日本国内に販売する商社である。ということは、円安は同社に不利な状況であり、とくにここ数年の金融緩和による急激な円安傾向はとくに不利なことであった。
 そのような状況にもかかわらず業績を向上させていた。14年度の日本レーザーの決算は、売上高37億7500万円(前期比19・5%増)、税引き後純利益8500万円(前期比97・5%増)という驚異的な好業績を出している。
 モチベーションを高めることを重視しているため、「社員満足こそ第一」を近藤は掲げている。社員が自社の提供する製品やサービスに満足していない状態で、顧客に感動や満足を与えることはできない。だからこそ近藤は、社員が満足できる会社をつくりたいと思うのである。
 社員満足を高めるための条件は、次の4つである。
①赤字にしないこと
 赤字になると、リストラの不安が出てくる。そうすると社員は転職活動をはじめるようになり、さらに赤字が続いていく。だから、中小企業は一度も赤字にしてはいけない。
②世間相場並みの賃金
 これは、働きがいを理由に賃金を下げてはいけないということである。待遇には相場があるので、それを維持する。
③イベント
 イベントを行うことで、社員に一体感が生まれる。日本レーザーでは毎月なんらかのイベントを行っている。
④職場の空気
 職場の空気をよくするために、トップから挨拶をするように心がけている。部下に声をかけることによって、職場の空気がよくなり社員満足が高まる。


◆社員との信頼関係を結ぶ


①トップと社員とのメール交換
 日本レーザーには、毎週社員が気づいたことを上司、担当役員、社長にメールするというコミュニケーションの手法がある。
 近藤は、かつて社員全員から送られてくる40~50通のメールを欠かさず読んで、一つひとつ返信していた。とくに、経営理念にそった内容のメールは、全社員にCCで送る方式をとる。これは、社員の書いた内容に社長がこう答えているということを知らせたほうが、効果があるためである。
 その後10年に副社長がリタイアしたとき、近藤の業務が増えたことで担当役員を宛先にして行うようになった。ただし近藤にもCCで届くようになっており、一生懸命やったものについては、さらに近藤がコメントを加えて全社員に送るようにしている。

②リストラは絶対にしない
 日本レーザーでは、企業側からのリストラは行わないという理念をもっている。さらに、単にリストラを行わないのではなく、社員の都合に合わせて勤務条件の改善を毎年行っている。
 例えば、短時間勤務、在宅勤務。また、1業者に2人の担当を配置することで、女性が育児休暇をとりやすくしたり、外国籍雇用や高齢者雇用などに取り組み、有能な人材を継続雇用する工夫がなされている。

③英語力に報奨金を出す
 日本レーザーでは、全社員にTOEICの受験を課しており、そのスコアによって手当が支給され、900点以上は年額30万円にもなる。
 このスコアは、毎年受験して維持しなければならない。入社1年目でも900点以上なら30万円の手当なので、会社としては小さな支出ではないが、グローバルに活躍できる実力を磨いてもらいたいという願いがある。
 TOEICは2時間で200問を解くもので、次々と問題に答えていかないと間に合わない。そのため、英語力を高めることに加えて情報処理能力を鍛えるのにも最適である。なお、新規採用条件にもTOEICが使われ、500点に届かないものは採用しないことにしている。
④対人対応能力手当を出す
 日本レーザーでは、対人対応能力に手当を出している。新卒の新入社員は最低ランクではじまり、そこから笑顔や返事の仕方、姿勢などを評価して上がっていく仕組みである。
 これは「笑顔も能力のうち」という近藤の考えに基づく。笑顔の絶えない営業マンとそうでない営業マンとであれば、顧客は笑顔の営業マンから購入する。相手に好印象を与える笑顔が性格であると定義すれば、そこに手当をつけるのは問題となるが、能力と定義すれば手当をつけないといけない。こうしたことから対人対応能力手当が設定されている。

⑤まず社長から成長への努力を見せる
 近藤は「社員の成長の前に、まず自分自身。すなわち社長が成長することが必要だ」という。社長が変わらない限り、まわりの世界は変わらない。まわりは自分が招いた社会だからである。近藤はこのことを、10年以上学んでいるべックスコーポレーションの香川哲会長から気づかされた。
 その上で、「社員の成長が企業の成長」を強調する。社員が成長しないと、会社の業績も伸びない。そのために、成長に見合った仕事の与え方をして、最後はそこに満足を感じるような仕組みが、「社員の成長が企業の成長」である。
 例えば、定年に関しても、雇用を重視した方向を示している。日本レーザーの定年は60歳となっているが、希望があれば再雇用して70歳まで勤務することができる。さらに、この年齢を伸ばしていこうと近藤は考えている。


◆ダイバーシティに対応する


 技術系の会社だと、専門的な知識をもった男性社員ばかりが活躍しているイメージをもちがちだが、日本レーザーは女性をかなり多く採用している。しかも、その女性は事務職だけでなく、管理職が6人もいてその男女比が約2対1である。このことからすれば通常の会社より多くの女性が管理職として活躍しているといえる。
 これには、日本レーザーのこれまでの経緯によるところがある。バブル崩壊から債務超過になった日本レーザーは、社員を雇用しようにも予算がなかったため、ハローワークに頼らざるを得ない採用をしていた。すると、応募してきたリストラにあった中高年、ハラスメントにあった女性、日本の学歴がない海外からの帰国組、中国からの留学生,障害者などであり、お題目ではない実質的なダイバーシティであった。
 新卒一括採用を前提とした年功序列や諸手当がモチベーションにつながらなくなるので廃止していき、「能力主義」と「成果貢献度主義」を設定した。こうした人事制度なら、女性でも、外国人でも、転職者でも、フェアに処遇できてモチベーションが高まるというわけである。
 こういったことから転職者の中間採用が多いわけだが、それは通年採用主義の結果でもある。ダイバーシティが進んでいるため、学歴、年次、年齢、性別、国籍を考慮しない実力主義であり、年収格差が他社より大きいのだが、入社までに転職を繰り返してきた社員も、いったん日本レーザーの社員になるとほとんど辞めない。
 中国人女性の留学生採用を業界の知人から打診された近藤は、営業事務職を条件に採用すると決めた。日本の国立大学大学院に入学し、国際経済を専攻して修士となったが就職がかなわないまま学生ビザが切れたので、帰国しなければならない状況だった。
 仕事は営業事務・営業アシスタントという事務職。外国のアクセントがついた日本語も1年半後にスムーズになった。なにより積極的態度が営業向きと判断した近藤は、その女性に営業事務職から営業職へのキャリアアップを打診した。
 女性は快諾し、ドイツ製の描画装置担当営業員となる。その後、彼女は中国人留学生から日本企業に入社した男性と結婚するが、間もなく夫がその企業の上海支店勤務の辞令を受けた。
 一般的には、妻は退職して夫について赴くのだが、「もし1年程度で日本に戻ってくるならば、上海の自宅を当社の支店として、電話やファックスでドイツのメーカーと日本の顧客とのやり取りをしてほしい」と打診した。
 当時は、まだインターネットによるやり取りが一般的でなかったため、離れた場所にいる社員の働きぶりが見えない。信頼できる人間だからこそ、この打診ができたということである。もちろん日本での給与は継続支給するという条件である。女性はこの条件をのみ、継続して日本レーザーで活躍することとなった。
 その結果、1年後に約束通り日本に戻ってきたが、この間の受注はゼロ。しかし帰国後の活躍を見て、この1年は人材を育成、キープするための投資だったと受け止めた。それだけこのエピソードはダイバーシティにもとづいた雇用を用意し、人材育成に力を入れていることを示している。
 近藤は15年の「レーザー研究」掲載論文で、次の話をしている。
「もともと限られた人材での企業再建・発展を模索している過程で、誰もがモチベーションを高めて、成長していく制度を構築してきました。言い換えれば、人を大切にするという経営を実践してきた結果です。
 女性でも男性でも、会社が能力や成果に見合った処遇をすることで、社員のモチベーションは上がります。女性でも男性でも、一歩踏み出す勇気をもった社員に成長と活躍の舞台を用意することが経営者の責任だと思います。
 そうして、社員が成長することで企業そのものも成長するということを確信しました。まさに社員の成長は企業の成長です」


◆人生観をカタチにして信頼をつかむ


 近藤は困難なものごとに直面したときに、「人生において2点間の最短距離は直線ではない」という言葉を思い出してコトにあたる。
 例えば、平面上の任意の2点の最短距離は直線で結んだ距離になる。しかし、人生においてはこのことが当てはまらず、壁にぶつかったり道が途切れていたりして、迂回しないと前に進めないこともある。
 あとで振り返ったときに、遠回りと思っていたことが実は最短ルートであることが多いということが、この言葉の示す意味である。そのため、近藤は困難に直面したときに、遠回りになりそうだけれども、これが最短ルートなのだと考える。
 この言葉は母方の祖母、28歳で夫と死別し2人の娘を女手一つで育てた日吉貞と父の肇から教えられたものである。銀座で商売していた祖母は、関東大震災と空襲で2度も全財産を失った経験がある。父は陸軍の軍医で、第2次世界大戦時には満州、インドシナ、インドネシアに赴いた。たまたま乗り遅れた船が台湾沖で撃沈され、全員が亡くなるという命の危機に直面もした。
 そのことから、人生とは思い通りにならないものという言葉が出てくる。もしうまくいかないことがあっても、それが近道で、そのまま直進していたら大きな崖があったと考えることもできる。「挫折も苦労も知らぬまま直線コースをたどっていたら、私はまったく違う人間になっていたでしょう」(近藤、前掲同著)
 近藤が重視するのは、雇用であってもその本質は信頼だということである。日本的労使関係において、バブル崩壊以降は労使の活力は低下し、信頼関係が傷ついたことに近藤は注目した。グローバル社会の到来とともに、会社と社員との間の信頼関係がますます重要になることを、近藤は気づいていたのだ。
 それは、近藤が学生時代にスキーの金丸美恵子先生との信頼関係によって多くの賞を獲得し、日本電子入社後に電子顕微鏡部門の紀本技術部長の厳しさのなかに「成長させたい」という思いを読み取るという信頼関係の大切さが身に染みていたことの結実である。
 さらに、30歳そこそこの労働組合委員長が1000名もの雇用を失い、その後の会社の経営に悩んでいたときに、仕事をしながら断食をするハピネスの会の会長、隆久昌子先生から大いなる存在につながって生きるという究極の信頼を学んだことにもよる。
 社員満足や雇用確保は、この信頼関係を成立させる上でもっとも重要なものであり、その信頼関係があるからこそ、幅広い顧客とメーカーをつなぎ合わせられるのである。
 何度も説明してきたように、日本レーザーは雇用を大切にする会社である。そこで、近藤の理念を中心に、なぜ雇用を重視するようになったのか、雇用を重視することがなぜ業績につながったのかを見てきた。
 雇用を重視する理念は、クレドの3番「経営の原則(CSより先にES)」に示されるように、なによりも社員を重視した考えにもとづくものであった。
 なぜ雇用を重視するようになったのかについては、近藤の信頼関係にもとづく経験と、組合や米国派遣時に知ったリストラとそれによって信頼関係が壊されていくことにもとづいている。
 そして「社員の成長が会社の成長」と定められているように、社員が積極的に動くからこそ顧客やメーカーとの関係強化ができ、他社の追随を許さないレーザー専門商社となったのである。世の中が業績第一主義で動くなかで、雇用を大切にすることで競争力を獲得した日本レーザーに学ぶ点は多い。


近藤宣之(日本レーザー)◆日本一の会社にしたい… ならば日本一、人を大切にせよ!