栗山源太郎
株式会社栗山米菓 創業者
『”人を慈しむ心”で、生涯農業生産者の救済に尽力した創業者』

栗山源太郎
株式会社栗山米菓 創業者
『”人を慈しむ心”で、生涯農業生産者の救済に尽力した創業者』


一生懸命野菜を作った生産者に報いたい


昭和の初め、日本全国には約20か所の“市場”があった。農業生産者や水産業者等の食品を、「市場法」に基づいた“公”の場で商いをしていた。

しかし当時に新潟市には市場がなかった。農業生産者は川を使って小舟で朝一番で収穫した野菜を、大通り沿いに並ぶ露店問屋にあずけ、問屋はその日の売り上げを農家に持たせて帰る。その繰り返しであった。

「ほかの地域ではすでに市場での取引がされているのに、新潟ではいまだ安定しない方法で商いが行われている。この方法では、農家も小売りも成長をしていかない」この様な想いを持った栗山源太郎は、「新潟に卸売市場を作る」ことを生涯の夢とした。

しかし卸売市場を作るということは、決して簡単なことではなかった。今あるすべての問屋が協力をしてくれなければ、市場を作ることはできないが、市場を作るということはすべての問屋が仕事を捨てなければならないということにつながる。多くの同業者は自分の生活・家の事を考え反対をしていた。

「新潟の青果市場の発展・成長」を常に分母に考えていた源太郎は、必死に周囲を説得して回った。その歳月は30年近くにも及んだ。

その当時父親の後ろ姿を見ていた、息子・清はこう語る。

「子供の時からやってきたことをやめるということは、そう簡単なことじゃありませんでした。新しい発想にみんなを理解するには大変な時間がかかりました。私も親父の姿を見ていて、自分の商いではなく、問屋業としてではなく、業界が良くなるためにということをずっと考えていました。」

そして昭和39年新潟に全国23番目の“中央卸売市場”が完成した。

市場ができると、源太郎は青果業を離れることとなり、新潟のためになることはと考えた末、名産の“米”を活用する“米菓”業を営むこととなった。


現在の栗山米菓に継承される“栗山フィロソフィ”


源太郎から清へと引き継がれた栗山家の経営思想は、栗山フィロソフィとして三代目の敏昭氏によって社員に継承されている。

A・二人の思想は栗山フィロソフィとして一冊にまとめられ、朝礼で社員全員が読み上げて継承されている。

B・フィロソフィを歌詞に入れた社歌(やなせたかし作詞作曲)を毎朝朝礼で歌い踊り自己のものとしている。

『希望の明日(あした)』
なにが みんなの よろこびか
なにが みんなの しあわせか
よろこびながら はたらいて
すべてのひとが よろこべば
それがほんとのしあわせさ ハイ!
あなたも ぼくも
わたしも きみも
ここが大好き 栗山米菓
のびて いくんだ 栗山米菓 Oh!

C・「新潟せんべい王国」をつくり米菓産業の歴史や各社の米菓を展示し、小中学生の社会科見学や県内外観光コースに盛り込まれ米菓業界全体のアピールにつとめている。

<業界の発展と共に>

「みんなが幸せになってこそ、自分も幸せになれる」

栗山米菓では、自社だけが良かったらいいという考えではなく、米菓業界全体が発展してこそ自社も発展するという考えで、業界に長年貢献してきている。ここに祖父・父の思想が継承されている三代目の志がうかがえる。

栗山源太郎(栗山米菓)◆米も社員も粗末にしない! 経営者の鑑から学ぶ大切なこと