極楽マシーンなんていうもんは、
社長が一年考えたって出てきません
一流大学出の技術屋が毎日会議したって
出てこない
ヒット商品は自由な企業体質からのみ
生まれるのです


 明治の時代、遊び道具の主力であった花札は〝賭け事に使われる〟ものといったイメージが強かった。「任天」の社名も〝運を天に任せる〟ということからつけられたという。カルタ、将棋など、日本人向きゲームの専業メーカーだった任天堂は、山内が社長になると次々とヒットを飛ばした。
 山内が最初に手掛けたエレクトロニクス応用の光線銃は、大ヒットとなる。そしてまた家庭のテレビで遊べる「ファミコン」という空前のヒットとなった。
 山内は「これはいい」と思うものについてはすぐにでも許可を出してやらせた。
 そして開発、技術、販売のスタッフを信頼して任せた。任天堂はどの職場も柔軟性にあふれている。社員をがんじがらめにしばりつけるようなことは全くしない。社員一人一人の個性を大切にし、自由にのびのびと発揮できる雰囲気をつくっているという。つまり「天に任せる」から「人に任せる」任天堂への変身である。
 任天堂の組織では、「これはいい」と思ったらすぐに決裁され、全社がプロジェクトとなって打ち込める。こうしたフレキシブルな企業体質の中で、すばらしいアイディアが次々と生まれてヒット商品を出しているというわけだ。
  山内の経営姿勢は『社員の個性、才能を自由に発揮させる』である。


【プロフィール】
山内 溥(やまうち・ひろし)1927年生まれ。 
任天堂は明治時代に山内房治郎(山内溥の曾祖父)が、京都で花札の製造から始めた。その会社をコンピュータ遊具などユニーク遊具のメーカーに育てたのが山内溥である。